なんで考えることが大切なのか
ブログでもHPでももう見飽きたよっ!というくらい「自分で考えるレッスン」を謳っているうちのお教室。
なんでそこにこだわるか。
音楽は自己表現だから!なんてまとめると、よくワカンナイけどそうなんだくらいで、脳みそに落ちてこない。
だってね、自分の人生って自分で生きるんでしょ?
おかーさんやおとーさんは子供達がおじいちゃんやおばあちゃんになるまで生きていて、先を見せてくれるの?
まさかねえ〜、かなりゾンビ化しちゃいますね。
ソレがあっていても、間違っていても「自分で考えて行動する」ができるようにならないと、ものすご〜く困るんです、子供が。
いや!手をかけるなって言っているわけではありません。
手をかけている時期も「自分で考えさせ、選ばせること」はできるはずです。
お母さんが選んじゃったり、決めっちゃった方が「早いから」「楽だから」「いつまでも決まらないと色々と困るから」ってやっちゃっていません?
それ、困っているのはお母さんであって、お子さんではないですよね?
先々、お子さんが「自分で考えて決められなくて」困っても、それはありなんでしょうか?
年齢が上がれば自然にできるって魔法はあんまり見ません・・・残念ながら・・・
生活全部を子供の選択に委ねることは不可能だし、そんなことしたらえらいことになっちゃいます。笑
ただ、どっちが好き?どっちに行く?という簡単なチョイスから始めて「なんでそっちが良かったの?」と考えることをつなげていくんです。
はじめは「なんとなく」していたチョイスも、時間が経つと明確な理由が見え隠れしてきます。
弾くことも一緒。
もう小学生になると出てこなくなっちゃいますが、学齢前のちびっこたちに楽譜に書かれている「ド」を指差して「ねえ、なんでここはドなんだと思う?」と問いかけると、実に奇想天外の面白い答えが(収拾がつかない場合もあり)返ってきます。
でも、これ。あくまでも「考える」ということを常にやっている子たちのみの現象。
言われたことをこなしている子供は「ここはドだよ」となんの疑問も持ちません。
その子の気質もありますが、考える事=トレーニングで養われるものです。
「ここ、なんでそう弾くんだと思う?」という私の問いかけに、大きなお姉さんたちは楽譜に食いつきます。
「あ・・・ここがこうなっているかな?いや、違う。ここがこうだから?んー。あ。ここか?」などなど。
正解が必要な時は正解を出しますが、必要なじゃない時は出しません。
自分の考えや思いなので「あっている」「あっていない」で分けられるものじゃないでしょう。
曲には作曲者がいて解釈という(アナリーゼ)が存在するので、作曲者の意向は話しますし、本を読んでもらったりもします。
でもね、最後は自分の考えです。
こうやって考えること、それを実行する力が付いている子たちは、生き抜く力を蓄えているんです。
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